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「余は如何にしてノイジシャンとなりしか1」

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「日本のノイズ(前編)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ジャパノイズTOPエッセイ
美川俊治 「雑音談義」

「日本のノイズ」(後編)  

   

ジャパノイズ格闘技王美川俊治(非常階段)が熱く論ずる『日本のノイズ』(=ジャパノイズ)!

 さぁ、君もこれを熟読してジャパノイズに想いをいたそう!

 

「日本のノイズ」 (後編)

 そのような「呪い」はいわば「日本のノイズ」に架された原罪であると言え ようが、その有り様は、この種の音楽に貼り付けられるラベルとその効果を考 えてみたとき一層顕著となる。ラベルには様々なものがありそのどれもが明確 な定義を持っているわけでもなく感覚的に用いられているのだが、その中の一 つに「エクストリーム・ミュージック」即ち「極端な音楽」というのがある。

何が極端なのかということははっきりしないが、何かの追い求め方が極端とい うことなのだろう。とすれば、それが演奏技術に向けられると、プログレッシヴ・ロックになったり、フュージョンになったりするのではないかと思われるが、そうした音楽のことを「エクストリーム・ミュージック」と呼ぶことはな い。

してみると、音楽の三要素である、メロディ、リズム、ハーモニーの全て またはいずれかを極端なまでに排斥したサウンドのことを指しているのか、多 分そんなところであろうが、実際、前述したように、一点豪華主義的な「暴 走」を見せる「日本のノイズ」の呼称としては、かなり妥当なものであると思 われる。先頃、英国のスーザン・ローリーから、日本のノイズを集めたコンピ レーションCDがリリースされたが、そのタイトルが「エクストリーム・ ミュージック・フロム・ジャパン」であった。タイトルとしてこれをつけると いうそのセンスは、今五つぐらいのものだろうが、本質を突いているという点 だけは認めても良いように思う。  

ところで、それが日本人の特質かどうかはよく解らないが、どうも我々に は、本来多様であり異質である筈のものを、何らかのカテゴリーに分類する、 それもはっきりした客観的基準があるわけでもなく何となく感覚的に色づけしないと落ちつきが悪いと言った感じがあるようだ。それが、新たな音を紹介す るのに雰囲気で語られているといった程度なら良いのだろうが、何かの範疇に 押し込められてそれが定着するようになってくると、本来そのような世間的評 価とは無縁のところにあった筈のものが、逆に、無言の形成力となって作用してくるといった現象が生じるように思う。

そのような作用も、「日本のノイ ズ」の特殊性を助長することになっている筈だ。更に言えば、その「日本のノ イズ」の特殊性という概念そのものが、元々は海外の判断によるラベリングな のだ。

以前に、私の手元に来た海外からの手紙には、日本のノイズについて語 ることがトレンディーであるというような趣旨のことが記されていた。また、 海外特にアメリカの雑誌等では、日本のノイズというものを極めて興味深いも ののように採り上げている記事が多見される。

更には、先述したスーザン・ ローリーの「エクストリーム・ミュージック・フロム・ジャパン」や米国カリ フォルニアのチャーネル・ハウスが出したCDコンピレーション「ランド・オ ブ・ザ・ライジング・ノイズ(雑なる音出づる処の国)」或いは京都のヴァニ ラ・レコーズがプロデュースしカリフォルニアのサイレント・レコーズからリ リースされた「カムアゲイン供糞困譟法廖文紊瞭鵑弔砲蓮屮離ぅ此廚箸い 言葉で括るには妥当ではないのではないかと思われるものも収録されてはいるが)等の存在もその辺りの事情をノイズ混じりで雄弁に語っていると言えよ う。

どうも、諸処からお叱りを受けそうだが、そうした文脈の中で語られる日本のノイズというのは、ハウリングを多用した高周波的ノイズ或いは波状的に 鼓膜に突き刺さる轟音群の中に、場合によっては、肉体の痙攣を想起させるよ うなスクリーミング・ヴォイスによる意味を伴わない絶叫が見え隠れすると いったイメージが典型的に思い浮かべられているようだ。

カムアゲイン

ニューエイジミュージックで知られるカリフォルニアのサイレント・レコーズからリ リースされたコンピレーションCD。                                

 マゾンナ、メルツバウ、暴力温泉芸者、吉田達也、伊藤まく在籍時のNORD、JOJO広重、インキャパシタンツ、ハナタラシ、ソルマニア等が参加。 カバーアートは英国の画家・トレバー・ブラウン。

そのような言説を 持って語られることは、実は、大半のアーティストにとっては迷惑なのだと思 う。そのように分類されてしまったことが、日本のノイズの特殊性に繋がって いるように思えてならない。そうした世評とでも呼ぶべきものが、被分類者に カテゴライズの強制として作用する力は随分と多い筈だ。上述したCDを一聴 すれば明らかなように、そこに収録されているアーティストの各々全てが、そ のようなカテゴライズに異を唱えているのではないかと思われる程に多様なサ ウンドが現前するのであるが、これら三枚のCDのビジュアル面で共通項が見 られることは、また注目に値しよう。

 

「エクストリーム・ミュージック・フロ ム・ジャパン」と「カムアゲイン」では、それぞれ裸体を包帯で覆い些かSM めいた雰囲気を感じさせる少女のイラストが示されており、「ランド・オブ・ ザ・ライジング・ノイズ」ではコケティッシュにして中性的な人形が着物を着 ていながら片肌脱ぎで物憂げにレンズを見つめている写真がフロントを飾って いる(個人的な嗜好を言わせてもらえば、中身が虚仮威しの音楽或いは様式美 に固執する腐臭漂う音楽のように感じる人が少なからず居るのではないかとい う点で嫌いである)。これらを見る限り、制作者の先入感的偏見がそこに集約 されているといってもあながち的外れではあるまい。

先に述べた音のイメージ が、或る種の拷問を思わせる、しかも長時間にわたってそれらの音に曝される うちにそこはかとない快感に変わっていく、という経験則がこうした被虐者を 想起させるイメージの採用に繋がっているのであれば、それは、特にこれらのようなコンピレーション作品に、その収録作品の多様性を越えて一定のイメー ジを付与し、即物的に購入者の意識を支配するのは言うまでもないが、同時 に、このビジュアルの与える事後的な規定力は、参加者たるアーティストの潜在意識にも多少なりとも影響を与えているのではないか。

そのビジュアルの選 択に、なるほどと首肯するか、或いは唾棄すべき対象として苦々しい思いを抱 くかのいずれであっても、そうしたものが採用されたという事実は、結果とし て、その採用に関わり得なかった個々の参加アーティストのマインドを何らかの相貌で変容させている筈である。  

そのようにして、何か一義的に規定されつつあるように思われる「日本のノ イズ」というものが、実際は、実に多様な形態を含んでいるというのは、全く 当然のことであるのだが、少なくともその語で括られる一群の中核にある(中 核にあるという表現は善悪或いは良否の判断とはこの場合無関係である)もの の音の特徴を先に述べたような形で把握することが可能であるのなら、元々 「日本のノイズ」等というカテゴライズに意味を見い出す者が少なくとも当の 本人達の中には居ないにせよ、その定義を最後まで全うし徹底することで、一 つの地平を極め、その結果としてラベル、カテゴライズの呪縛から逃れること が可能なのではないか。

初期には過小情報の拡大解釈が、後には過剰情報の氾濫が、少なくとも海外の距離を置いた眼で見れば「日本のノイズ」と括りたく なるような属性を付与してきた音群に、正にそのようなラベルを貼付すること でサブリミナルな自己規定を余儀なくされている、これこそが「日本のノイ ズ」に向けられた呪いであるとすれば、絶え間ない変容を繰り返すことによっ て一旦与えられてしまったラベルを剥がすことに執心することも可能であろ う。

しかし、それよりはラベルを自家薬篭中のものとしてしまい、極限でのラ ベルの体現者となっておきながら「そういう言い方もあるね」「なるほどそれ は言えてるなあ」等とやり過ごしてしまう方が、よほど効果的だ。さりげない が途方もない加速度を持って彼岸に向けて暴走し続けることは、「日本のノイ ズ」が意識するとせざるとに関わらず背負い込まざるを得ない原罪へのあがな いであったのだ。だとすれば、多くの「日本のノイズ」の排出者達は間違いな く真面目な贖罪の日々を送っているということだけは、筆者の周囲を見回すだ けでも断言できる、皆は異口同音に否定するだろうが。 (了)  

(注)(この一文は1994年に執筆され、G−Modern誌に掲載されました。今回筆者より、当サイトの読者にも一読に値するのではないかということで再掲載することになりました。読者のご熟読ならびに感想をお待ちしております) (2005.1.1UP)